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歴史好きマニア向け岩手県の観光地3選
こちらの訪問地は、平泉にとっても興味がある方、歴史や遺跡に興味がある方向けです。一般的な観光地よりもマニアックな訪問地になりますのであしからず。平泉が栄える前の歴史を知る手掛かりになる観光地ばかりです。
北上市立博物館
北上私立博物館は新幹線と在来線の北上駅から車で約10分の所に位置しています。
日曜日に行きましたが観光客の数は少なくひっそりとしていました。
北上市立博物館は1978年に開館し、2016年にリニューアルしました。外観は古そうですが、中に入るとまだ新しく展示内容も見応えがあります。
博物館の入り口には北前舟で使われていた手漕ぎボートの模型があります。船はお米を積んで北上川を通って石巻へ行き、京都へ運ばれました。地元で売るよりも2倍の金額で売れたそうです。
もちろん船にエンジンはなく、4人が漕いだそうです。大変だったろうなあ。
展示は主に国見山廃寺に関する資料が展示されています。
国見山廃寺とは平泉より前に栄えた山岳寺院の跡です。発掘調査により、900年〜1100年前、つまり平泉より200年以上前に東北北部の最も大きい寺院跡であることがわかりました。
国見山廃寺は標高250m程の小高い山に位置しており、本堂や経堂、塔があったと言われている礎石が残っています。
博物館の展示は国見山廃寺の発掘調査で出土した土器や儀式に使われた道具や飾りが展示されています。
とても保存状態が良く、とても1000年以上前に使われていたとは思えません。
興味深かったのは、仏像の螺髪がコロコロと展示されていました。
館内を見る所要時間は30分くらいでしょうか。1フロアだけで、さっと歩きまわるとすぐに終わってしまうので、展示の説明をじっくり読んで理解を深めることをおすすめします。
北上市立博物館の敷地内にはみちのく民俗村という野外博物館があります。北上川流域にあった古民家などを移築して展示しています。他にも民族資料館、消防資料館もあります。
国見山廃寺に興味がある方は、北上市立博物館から車で10分程で行けます。
廃寺跡は山を登るので、歩きやすい靴と熊よけのベルをお忘れなく!
成島毘沙門堂
成島毘沙門堂は新花巻駅から車で15分ほどの場所に位置しています。バス停もありましたが、周囲には何もなく交通の便が良いとは言えなさそうです。
マイカーやタクシーで来た方がいいかなと思います。
着いたらまず、階段を上がります。境内は杉の木に囲まれていて清々しいです。階段を上がって左手に熊野神社、右手にお寺のお堂があります。毘沙門天を見るためには、さらに階段を上がり拝観料を払う必要があります。
参拝経路はこちらという案内板があるのでそれに沿って、階段を上がります。結構息切れします。
すると上に下記の写真の建物が見えてきます。こちらが現在毘沙門天像が安置されている収蔵庫です。
拝観料を支払い、靴を脱いで中に上がります。
わお!
建物の中に平安時代に造られた毘沙門天が佇んでいました。毘沙門像の高さは4m!
凛とした表情と強い目力に圧倒されます。
受付のおじいい様が音声案内を流してくれました。
案内によると、、毘沙門天の中では日本一の高さです。ケヤキの1本の木から掘られているそうです。
保存状態がとても良くこれが1000年以上前に建てられたとは驚きです。
坂野上田村麿をモデルに、戦勝を祈願して建てたと言われています。
現在は国の重要文化財に指定されています。(以前は国宝に指定されていましたが仕組みが変わり重要文化財に格下げ?されてしまったようです。)
毘沙門天は上の写真より前のコンクリート造りの建物に安置されています。もともとは、上記の木造のお堂に安置されていました。
こちらのお堂は中世に建立されたと書かれています。神仏習合の名残で入り口には狛犬、毘沙門天が安置されていた場所には大きな鏡がお祭りされていました。
気になったのは、名前は忘れてしまいましたが、財産の神さまがお祀りされていました。しっかりお賽銭を入れて手を合わせてきました。
外からお堂を見た写真です。狛犬は顔の輪郭が見えなくなるくらい長い間ここに鎮座しているようです。
お堂の隣には三熊野神社がひっそりとそびえ立ちます。毎年5月に2歳児の子供が泣き相撲をすることで知られています。(早く泣き出した方が負けです。)
奥州市埋蔵文化財センター
奥州市埋蔵文化財センターは新幹線の水沢江刺駅から車で15分ほどの所にあります。在来線で水沢駅からバスも出ています。
こちらの博物館では胆沢城の跡地と隣接しています。
胆沢城は802年に坂野上田村麿によって造営されました。お城と言っても今のような天守閣ではなく、大きなお寺のような建物で、周りを塀と堀で囲まれていました。
この博物館では主に胆沢城の再現イメージ像と、お城跡から発掘された出土品を見ることができます。
また蝦夷とは何かという基本的な説明もなされてます。
蝦夷は、朝廷によってつけられた名前で「野蛮な人々」という意味合いがあります。朝廷は、蝦夷には稲作の技術がないと考えれられ見下されていました。
しかし、周辺の発掘調査で稲作に使われていた道具が見つかり展示されています。また胆沢城で出されていた食事の調査で、米の他に果物や魚も食べられていたことが分かりました。朝廷が考えた「蝦夷は劣っている」という考えは間違っていたのです。
東北の歴史に興味がある方におすすめです。